現代社会はストレス社会とも呼ばれ、私たちは多くのストレスを抱え、心に起因する社会問題はますます深刻化しています。競争社会、管理社会、高齢化社会、情報化社会というように、ストレスは雨のように降ってきます。質の高い心豊かな生活を送るためには、脳に対する正しい理解と、それに立脚した共感と思いやりのあるコミュニケーションを介して、人々が互いに調和しながら進むべき道を柔軟に模索していく必要があります。人が人の脳を正しく理解する脳リテラシーこそが、心の病の予防や治癒への鍵になるでしょう。
最近、人工知能(AI)が進歩し、もはやAIが脳を超えるシンギュラリティが起こるのも時間の問題だと思っている方も多いかも知れません。実際にAI技術が破竹の勢いで進歩していることは間違いなく、ChatGPTなどの生成AIの大旋風を見れば、その進捗を肌で感じるでしょう。これらのAIの多くは、ニューラルネットワークを基盤としています。ニューラルネットワークとは、人間の脳の素子である神経細胞やそのつなぎ目であるシナプス、そしてそれらから形成される神経回路網から着想を得たものです。人類の脳がAIに追い越されるシンギュラリティは本当に起こってしまうのでしょうか?そんなことは起こらないと、少なからぬ研究者が否定的な見解を述べていますし、わたしも今のところ否定派です。
では、人の脳にできて、AIには困難なことには、どのようなものがあるのでしょうか?現在のAIは特化したこと、例えば囲碁などのように、特定のタスクにのみ人を凌駕する能力を発揮できます。一方で、人間はさまざまなタスクに柔軟に対応できる汎用性を持っており、さらには未知の状況を推論し、自らの行動を持続的に修正することができます。また人間は、原因と結果を理解し、それを簡潔に表現できます。たとえば、過去の膨大な天体データに基づき、どの惑星が、いつ、どこにあるかを計算することはAIにもできますが、このような原理原則を、宇宙の秩序を端的に表す理論(ケプラーの法則)として表現することは未だにできません。この理論は、400年も前に天文学者ヨハネス・ケプラーにより導出された美しい理論です。また、膨大な文献を読み込むことはAIの得意とするところですが、意味を理解し、そのエッセンスを凝縮したキャッチコピーにすることもAIには難しいでしょう。今年の新聞をすべてAIに読み込ませ、サラリーマン川柳を作成したとしても、入選作品が魅せる悲哀とユーモアを交えた圧倒的なシャープな切れ味になるでしょうか。また好奇心、向上心、時に不合理は判断やリスクをとり、想定外のセレンディピティを生み出します。人間は、「なぜ?」と疑問をもち、考えます。考える分、思考力は深まり、新たな創造が次々と生まれていきます。AIに、「なぜ?」と疑問を持ちなさい、良い「問い」を設定しなさいと命令しても難しいでしょう。
人間の脳がいかに優れた創造物であるか御理解いただけたと思います。重量で言えば、せいぜい1400 gの物体が、このような緻密で、柔軟で、創造的な知的作業を司るのです。そして、その機能が不具合を起こしたものが「心の病」、すなわち精神疾患なのです。最新の疫学データによれば、「心の病」に一生涯のうちに一度でも罹患する確率は80%だそうで、わたしたちにとって一大事のこの病は、もはや、他人事ではありません。
そこで本研究室では、「心の病」、とりわけ統合失調症や発達障害の病態解明に向けて日々奮闘しています。とりわけ神経細胞のつなぎ目となるシナプスという微細構造物に注目し、シナプス機能の変化がどのようにニューラルネットワークへ影響するかを解明しようと挑戦しています。モデルマウスを利用したり、患者様の死後脳を検証したり、iPS細胞を解析したりします。これらの研究を通じて、患者さんの脳の中で何が起こっているのか、そしてそのうち治療の標的となる本質は何かを同定したいと考えています。
研究のために最も重要な因子は人材です。多くのメンバーは文部科学省・日本学術振興会や日本医療研究開発機構などの競争的研究費により雇用されています。こうした研究費は、最長5年間であり、その期限が切れる前に次の研究費を獲得しなければなりません。大きな研究費の期限が切れる前には、次の研究費を獲得できるだろうか、研究が継続できるだろうかと、大きな悩みとなります。さらに、研究をするには、多くの研究用機器や試薬も必要です。わたしたちの研究室の主力手法は2光子励起顕微鏡を用いたイメージングであり、そのためのレーザーをメンテナンスするために大きな予算が必要です。このような環境の中でも、なんとか本当に価値のある研究を行い、少しでも「心の病」に対して効果的な治療法を開発したいと日々努力しています。
本研究所では、特定の研究・教育を支援することを目的に『使途指定寄付金制度』を設けております。この制度は、寄付者のご意向にかなった目的に使用させて頂く寄付金です。
詳しくは、下記をご覧下さい。
https://www.riken.jp/support/designated/